カリガンダキを行く PartⅡ 

4年ぶりのネパール(2023.12~2024.1)

前々回(2019年)は慧海の足跡を辿りジョムソンまで行ったが、今回はその先、ダンカルゾン(慧海がマルファ出発後最初の投宿地)・カグベニ・ムクチナートまで足を延ばしてきた。ヒマラヤの北側は木々の緑色が極端に少なく、代わりに茶褐色の岩山と碧い空が広がる。

ヒマラヤの造山運動を物語る褶曲がいたるところに見ることができる
ヒマラヤの造山運動を物語る「褶曲」がいたるところに見られる

 

ムクチナート  慧海はツクチェで出会ったモンゴル僧シェーラブ・ギャルツァンと共にツァーランに行く途中にこの地を訪れた。

ムクチナートのヒンドゥー教寺院
ムクチナートのヒンドゥー教寺院
ムクチナート名物 108の牛の口から流れる聖水
ムクチナート名物 108の牛の口から流れる聖水
ムクチナートの街並み
ムクチナートの街かど
ムクチナートより西南西を望む
 ムクチナートより西南西方向を山座同定(画角35㎜相当)

カグベニ  ここから先、ツァーラン・ローマンタンへは別途高額な入域許可証が必要で今回は断念!

カグベニよりカリガンダキ上流を望む この先に行くには別途パーミットが必要
カグベニよりカリガンダキ上流を望む この先に行くには別途パーミットが必要
カグベニ村の仏塔
カグベニ村のメインストリート
カグベニ村で見た「魔除け」?
カグベニ村で見た「魔除け」?

ダンカルゾン  いよいよ慧海のチベット旅行のハイライトともいえる「ヒマラヤ(国境)越え」が始まる。

1900年(M33)6月12日マルファ出発 最初の宿泊地ダンカルゾンに着く。

空の屋根 土をしとねの草枕 雲と水との旅をするなり  慧海

ダンカルゾンよりチィリチョピーク(左)とニルギリ北峰
ダンカルゾンよりティリチョピーク 7134m(左)とニルギリ北峰 7061m
ダウラギリⅠとツクチェピーク
ダウラギリⅠ峰 8167m とツクチェピーク 6920m (ダンカルゾンの対岸ルプラ村にて)
この先サングダ・ドルポへの道標
この先のサングダ・ドルポへの道標(ダンカルゾンのとなり村ファラックにて)

 

4年ぶりのネパール 変わったことあれこれ

●2015年4月25日のネパール大地震で倒壊したカトマンズの世界遺産「カスタマンダップ」が立派に再建されていた。 祝 <拍手>

再建されたカスタマンダップ
再建されたカスタマンダップ

●ポカラに新たに空港が開港していた。(C国援助によるとか… 2023年初頭に開港)

●いつも利用の カトマンズ↔ポカラ間のツーリストバス「Green Line Bus 」 が無くなっていた。 *コロナのせい?

●ゴレパニまで四輪駆動車で行ける道ができた。

●ネパール滞在ビザ申請がオンラインになった。

前回2020年は関空からカトマンズまで直行便(RA)で行けたが、その後 成田からに変更され、今回はキャセイ航空で香港乗り継ぎで行くことに… <涙>

 

ゴレパ二・プーンヒルトレッキング

憧れのゴレパ二・プーンヒルトレッキングに行ってきた。

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宿場町Ghorepaniのメインストリート

ゴレパ二(2860m)は古くからの交易の道の宿場町。かつて「河口慧海」はこの峠を越えてチベットを目指した。

師の著書「チベット旅行記」によるとカトマンズからポカラを経てツクチェに行く際、このゴレパ二峠を越えたと考えられる。今はトレッカーが行きかうメインルートであるが当時は暗く寂しい山道であった。

 … 私達は世にう深山幽谷ゆうこくというのは真にこういう所を言うのであろうというような恐ろしい深山幽谷の間を歩いて参りますと、カックー、カックーという杜鵑ほととぎすの声が幾度か聞こえます。「チベット旅行記」より

  ヒマラヤの 樹の間岩間の 羊腸折り うらさびしきに 杜鵑鳴く   慧海

 

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PoonHill(3210m)からの大パノラマ

トレッキングを開始した前日は曇り空。願いが叶いこの日は晴天。疲れも寒さも忘れさせてくれる絶景が満喫できた。3210mのプーン・ヒルから望むヒマラヤの姿は神々しいというしかない。東からダウラギリⅠ、ニルギリサウス、ファング、アンナプルナⅠ、アンナプルナサウス、ヒウンチュリ,そしてマチャプチャレが聳える。

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心配していた高山病もなくここまで来れたが、この後のコースは延々と続く雪の下り坂道。何度も転びながらもようやくこの日の宿泊地タダパ二(2630m)に着くことができた。率直な感想は「キツイ」の一言。・・・絶景が見れた代償は大きい。

トレッキング3日目はガンドルン(1940m)に泊まる。夜まで雪だったのが、翌朝昇る朝日がヒマラヤを照らし始めた。Ghandruk B

Ghandruk

ガンドルンを訪れるのは2回目。グルン族の住むこの地方最大の村である。ここでも伝統の古い民家が徐々に新しい家に変わっていくのが残念である。

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20年2月 ゴレパ二トレッキング に行く

ネパール航空直行便利用「ゴレパ二トレッキング」

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ネパール航空サイトより

昨年8月に12年ぶりに再開したはずの 関西→カトマンズ線 が2020年2月で終了、3月からは成田発着になるとのこと。

そこで、2月に行くことを決めた。なんせ直行便のメリットは多い。経由便に比べはるかに早く約8時間ほど(帰りは6時間)である。

今回の目的は3泊4日のGhorepaniトレッキング。アンナプルナ山域では最もポピュラーなコースである。

前回はカリガンダキ川に沿って高峰を仰ぎ見る形だったが、今回は標高3210mの(プーンヒル)からま近かに迫るAnnapurnaSouth(7219m)を見に行く。

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プーンヒルよりダウラギリⅠを望む
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アンナプルナサウス(7219m)

AnnapurnaⅠ(8091m)・DhaulagiriⅠ(8167m)を見わたすことのできる最高のビューポイントPoonHill(3210m)である。

今回もひとり旅(現地ガイドと)。気力・体力が年々衰えるなか、ラストチャンスと捉え挑戦しようとした次第。3210mといえば南アルプスの北岳と同じ高さ。高山病の心配はないと聞いてはいるが気を付けないといけない。好天を願っている。

ネパールの魅力

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少女の生き神様「クマリ」

ヒマラヤだけがネパールの魅力ではない。ヒンドゥー教とチベット仏教とが混ざり合った独特の文化・価値観。人々の生活を見ているだけでおもしろい。カトマンズの通りという通りには小売店や露店商・屋台がひしめいており、スーパーでの買い物が普通の我々にとってはとても興味深い。かつての日本でもこういう光景が見られたのだと思える年代は少なくなってしまったようだ。

言葉や習慣は違っていても何か親しみ・温もりを感じる。そんなネパールの魅力にとりつかれて43年。ネパールの地を踏むと「おかえりなさい!」が聴こえてくるのである。

クマリン6

関空↔カトマンズ直行便就航

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12年ぶりにネパール直行便が2019年8月再開

ネパール航空が 関西空港↔カトマンズ 線を週3便で運行することになったとのことで予約サイトを連日確認するが、どうも今のところ週1・2便しか運航していない様子。(予約カレンダーも2か月先までしか機能していない*10月時点) で、当分の間は静観しようと。

以前は上海経由だったが、ダイレクトにカトマンズに行けるのはありがたい。安さの点では中国南方航空(広州経由)がベストだが ネパール航空で 約73000円(往復)は魅力的である。

今ネパールは・・・ 中国から逃れられなくなった現状

ポカラの新空港が中国の資金援助のもと建設中であることは以前述べたが、今度はカトマンズとラサを結ぶ鉄道建設や大型水力発電所建設が中国の主導で行われようとしている。まさに「一帯一路」政策の一環であることに間違いない。現政権のオリ首相は親中派でこれまでの伝統的なインドとの関係を断とうとしている。nepal

それでも昔から多くのチベット難民(中国が嫌いで亡命)を抱えるネパールとしては彼らを差し出せと言わんばかりの中国の要求はさすがに呑めないでいるらしい。独立国としての意地があるのだ。

地理的に大国インドと中国の間に位置する小国ネパールだが言語・宗教はよりインドに近く、独自の文化を保ってきた。いちネパールファンとしては、願わくばこれ以上の「中国寄り」はやめて欲しいのだがそうはいくまい。

今やネパールを訪れる中国人観光客は以前の日本人にとって替わり、中国語が彼らにとってはより必要とされるのである。

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カトマンズ王宮広場 の倒壊現場の看板 2015大地震の復興を中国が全面的に協力支援している

中国による、いち早い地震の復興支援や各種の経済援助は結構なことだが、衣の下に鎧がチラチラと見えてしまうのである。

植民地とまではいかないものの実質的にネパールの政治・経済を牛耳ろうとしているのは確かである。

クマリン6

カリガンダキ大峡谷を行く

2019.1 カリガンダキ川に沿ってジョムソンまで四輪駆動車で往復してきた。が、想像以上にキツかった…悪路のせいと体調不良とで…

カリガンダキ川の河原を四輪自動車で行く
カリガンダキ川の河原を四輪駆動車で行く

ヒマラヤの高峰アンナプルナとダウラギリの間を流れるカリガンダキ川は、ヒマラヤができる以前からチベットから流れ出ており、ヒマラヤの隆起と川の浸食作用で川床から東西それぞれに僅か10km程先に実に7000mもの高低差の世界最大級の大峡谷である。

行く手にニルギリサウス
行く手に ニルギリ・サウス6839m

断崖絶壁の景観がいたる所にあり、7・8000m級のヒマラヤたちを眺めながら行くのである。

オーバーハングした岩の下を行く
オーバーハングした岩の下を行く・・・

120年程前、ひとりの日本人僧がチベットに経典を求めてカリガンダキをさかのぼって行った。河口慧海である。マルファにある「河口慧海記念館」も訪ねてきた。DSCN2337

慧海の居間
2階の慧海のいた部屋
居間の隣室は仏殿
居間の隣室はお経のぎっしり積まれた仏堂

ついに念願の慧海ゆかりの地「マルファ」にきて、師の苦難の旅の一端に触れることができたことを喜んでいる。師はこの地に3ヵ月滞在し、チベットに向かった。

ネパールではあるが、もうここはチベット文化圏であることを改めて強く感じる。

マルファの街並み
マルファの街 白い石を積んだ家が続く

    カリガンダキ川に沿ってヒマラヤを望む タトパニ→ジョムソン 📷

ニルギリサウス6839m
ニルギリ・サウス6839m
アンナプルナⅠ
アンナプルナⅠ8091m(世界10位の高峰)
ニルギリ山群とアンナプルナⅠ・ファング
ニルギリ山群とアンナプルナⅠ・ファング
ダウラギリⅠ8167m
ダウラギリⅠ 8167m(世界7位の高峰)
ダウラギリⅠ 8167m
ダウラギリとツクチェピーク6920m
ツクチェピーク6920m
カリガンダキ川と4600m峰
サーバンダウリ4991m
サーバン・ダウリ4991m
ニルギリ6940m
ニルギリ山群
ニルギリ中央峰
ニルギリ北峰7061m

     非日常を求めて今回もひとり旅、でもいつも新たな出会いがある。

ジョムソンの夜 カナダ人のグループと
ジョムソンの夜 カナダ人のグループと
ボドナ-ト夜景
夜のボダナ-ト
ニャタポラ寺院五重塔とドルジェ・ラクパ
バクタプル・ニャタポラ寺院五重塔とかすかに ドルジェ・ラクパとランタン・リルン
バクタプル・トウマディー広場
夜も賑やかなバクタプル・トウマディー広場 右手のバイラブナートは修復工事中

 

Marpha,Jomsonへ・・・慧海の足跡を辿る

2019.1月 河口慧海の足跡を求めて、Marpha,Jomsonを訪ねることにした

Marphaには慧海が約120年前に投宿した民家が今も「EKAI KAWAGUCHI’S HOME」として公開されているので今回はここを目指す。近くのJomsonまで空路も考えたが、敢えて時間のかかる陸路を選んだ。ポカラから四輪駆動車で7・8時間以上かかるが、カリガンダキ川に沿って東にアンナプルナ、西にダウラギリ、行く先にニルギリを望みながら行く絶景のルートである。

慧海師はJomsonからいよいよ国境のクン・ラ峠を越えてチベット入りを果たすのである。P→Jomson

途中のDanaはかつて日本の地質学者たちが数か年かけてヒマラヤの造山活動の仕組みを探ろうと測量をしたところである。(1980年のこと)また興味深いことは、このDanaの川床(標高1400m)から10Kmほど東にアンナプルナ・西にダウラギリの8000m級の高峰が連なるのである。もともとカリガンダキ川が北から南に流れるなか、長い年月をかけて少しずつヒマラヤが隆起(約5800万年前インドがユーラシアに衝突して)するのに対し川床は川の侵食作用で元の高さが保たれたからである。僅か10Km先に高低差が実に7000mもあるヒマラヤの高峰を仰ぎ見ることができるのである。こんな所は世界広しといえ滅多にないので是非この目で見たい。

浸食隆起・

今回の旅の主な目的は Marphaの河口慧海記念館で慧海を偲び、チベット仏教を肌で感じること、名産のアップルブランデーやチベットのバター茶を食すること。 Danaでは今も続くヒマラヤの造山活動を思うこと。 カリガンダキ川沿いに見えるアンナプルナ・ダウラギリ・ニルギリを撮影。 カトマンズ・ボダナートの夜景の撮影。  バクタプルのニャタポラ寺院の五重塔越しにヒマラヤを撮ること。 バドガオン・ゲストハウスではネパール料理のダルバートとネパールの焼酎ロキシーを味わうこと。 等々・・

いざ行かん ヒマラヤの雪 踏み分けて 法の道説く 国のボーダー(チベット)

明治32年1月5日 カルカッタにて慧海が詠んだ チベット行の決意を示す一首である。

いざ行かん ヒマラヤの峯 仰ぎ見つ チベットに続く 師の道辿る  ネパ吉

ガンドルン(Ghandruk)にて

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グルン族の村「ガンドルン」

2018.1月 念願のガンドルン(Ghandruk 1940m)に行き、間近にマチャプチャレ、アンナプルナサス、ヒウンチュリを観てきた。ことに夕方の残照や日の出は圧巻である。河口慧海の短歌に「寂金光・・・」とあるが、まさに金色に輝くさまは神々しいと讃えるほかない。DSC_1724_00001

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残照のマチャプチャレ

写真家・白川義員の「世界百名山」の誇張したような極彩色のヒマラヤがこの目で見れたことには正直驚いている。慧海も見たであろうこの金色に輝くマチャプチャレの残照をやがて暗闇に消えてしまうまで見続けていた。

DSC_1717_00001DSC_1775_00001DSC_1769_00001DSC_1685_00001DSC_1649_00001ポカラから4輪駆動車で3時間ほどでKimcheに着く。ここから3.5Km高低差300mを約1時間かけて歩くとGhandrukだ。古くから交易のルートの村として栄え、今はトレッカーたちで賑わう。グルン族特有の石積みの家並みが美しい村である。

キムチェ

 

前回宿題の「河口慧海の記念碑」さがしてきました。ボダナートの北側のアジマ寺院の右隣り、なんと前にはお店が!? これでは見つけられなかったのも無理ないかも・・・

 

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河口慧海記念碑

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「ここに日本とネパールの友好が始まる・・・」と刻まれていた。

「河口慧海」のこと

120年前、日本人で初めてネパールを訪れた「河口慧海」

*仏典を求め、日本人として初めてネパールを経てヒマラヤを超えチベットに入る

河口 慧海(かわぐち えかい、1866年2月26日慶応2年1月12日) – 1945年昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。中国や日本に伝承されている漢語音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たした。 <ウィキペディア>

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河口慧海65歳
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父善吉が明治15年に信貴山に奉納した絵馬には定次郎の名も記されている

河口慧海の生家跡(大阪府堺市)には記念碑があり、すぐ近くには「堺市立町家歴史館 清学院」がある。(慧海が学んだ寺子屋を保存)ここには慧海ゆかりの品と資料が展示されていて慧海を偲ぶことができる。

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河口慧海生家跡にある記念碑
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生家跡近くの菅原神社の灯籠下段に「樽善」(父善吉の桶樽製造業の屋号)とある
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堺市立町家歴史館「清学院」
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慧海ゆかりの品の鉄瓶 (2016頃の展示)

鉄瓶に記されたヒマラヤの荘厳さを詠んだ慧海の和歌

金色雪山 

寂金光 ゆるがぬ山の 荘厳に 魔王も夜叉も 怖ぢずやはある    慧海

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「第一回チベット旅行記地図」パネル展示

パネルの中央部「ポカラ」の上部に記された「マチプサ」の文字。著書の「チベット旅行記」に「魚尾雪峯(マチプサ)」とある。我が愛する聖山マチャプチャレ(6993m)のことである。

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*2018.1月 マチプサ(マチャプチャレ)に会いに行くことにした。先回見つけることができなかったカトマンズのボダナートにある「河口慧海記念碑」も探してきたい。

カトマンズの交通事情

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パタンのダーバ・スクエア(渋滞の様子を示す写真ではありません)

カトマンズの交通渋滞はひどい

タメル地区の狭い道は常に 人、車、バイク、リキシャ、荷車がひしめき合っている。「譲る」ということを全くしない。皆が我先にと可能な限り突っ込んでいくのだから、いたるところでトラブルが起き、渋滞が発生する。

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2人乗りのバイクが多い(ボダナート前)

車の通れないようなほんの少しの隙があればオートバイが強引に割り込んでくる。その中を歩行者が という具合で延々と渋滞状態が続くのである。改善作は・・・ ない。私など、ひたすら身を小さくしながら五感を研ぎ澄ませて恐る恐る歩くのである。

バクタプルからの帰り 

カトマンズでは珍しい4車線ほどある道路にもかかわらず大渋滞である。車も多いが、オートバイの数が半端ではない。例によってむちゃな割り込みが前後左右からである。交通信号はたまに大きな交差点にあるのだがあまり役に立っていないみたいだ。警官が道角に立っていて交通整理にあたるのだが、あまり要領が良いとは思えず、慢性的に大渋滞だ。タクシーでバクタプル~バネソール(エベレストホテルあたり)までの約10kmを1時間近くもかかってしまった。が、日常のことと知る我がドライバーは平然としていた。

横断は命がけ

道路の横断はその大小にかかわらず命がけである。なんせ止まってくれないどころか、クラクション鳴らしまくって通り過ぎるのである。車だけでない。バイクがやたらと多いから始末が悪い。マナー云々というレベルではない。国民性なのか?衝撃的というより絶望的である。解決策・・・ ない。 それでも行きたい旅行者は慣れるしかないのだ。

1日中、車やバイクのクラクションがけたたましく鳴り響くカトマンズ。車社会の成熟度が低い為の現象であろう。そもそも車の走れる道路環境が整ってないにもかかわらずその数が多すぎるのである。近年の急速な経済発展の結果このような状況に陥ってしまったのである。 かつての日本もそうであったことを忘れてはならないとも思う。

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インドTATA社製のトラック